金融界に功罪相取りまぜて大きな足跡を残した。
頭取のIから二0歳代の若さで貸付課長に抜擢された。
だが、K銀行が破綻。
一時、M、Mを上回る大商社となったS商店系のH造船所(のちのI造船所、現・IHI)に転じ、支配人に昇進した。
さらに、同じS商庖系のK製鋼所の主事となり、鉄鋼の納入先の海軍工廠がある佐世保出張所の所長として赴任。
そして、一九二三年に、K銀行にいた経験を買われて、S商業銀行の常務にスカウトされた。
K、三七歳のときのことだ。
KはS商業銀行頭取としてS銀行設立に参画し、S銀の副頭取に就任。
終戦直前の一九四三年に頭取になった。
四六年、長崎二区より、修正資本主義を掲げるS党から立候補して、初当選。
A内閣では大蔵大臣を務めた。
Kと行動をともにした同志に、N、S、Kなど、青年将校といわれた若手議員がいた。
Kは政界に軸足を移したが、金融界における、ご威光は健在で、S銀行は「K銀行」と呼ばれていた。
Kは一流を好んだ。
本店や東京支局などを設計したのは戦後の日本を代表する建築家の一人であるU。
本局はヨーロッパの石積みの塔を思わせる奇抜なデザインである。
芸術性を損なうとして蛍光灯はご法度。
ビジネスの牙城といっていい銀行には不向きな建物だったが、全国の大学の建築科の学生が卒業までに実地にみるべき建築物に指定されていた。
歴史と伝統を持つS銀行の株主には、親代々からの株主が少なくない。
株価が上がっても、株を売ってカネにするようなことはしない。
株券はタンスに大事にしまわれていた。
それが、ある日突然、株主責任を問うといわれ、公的資金を肩代わりさせられたうえに、株券はただ同然の紙切れになってしまった。
切り捨てられたKSの株主たちの間には釈然としない、重い澱のようなものが残った。
「あの事件さえなければ、いまでもピンピンしていたのに」株主たちからは、そんな愚痴が出た。
バブルの昂揚にも背を向け、不動産融資が限りなくゼロに近かったS銀行が崩壊に向かう転換点になった「あの事件」である。
頭取・Tの犯罪「あの事件」とは一九九八年五月、S銀行の元士関取のTらが商法違反(特別背任)で速捕された事件のことだ。
九三年七月から九五年六月にかけて実行された暴力団絡みの不正融資である。
「頭取の犯罪」の後遺症は大きく、とうとう、自力再建を断念するところまで追い込まれた。
Tは大正時代最後の一九二六年二一月、佐世保市で生まれた。
同一二月二五日から元号は昭和に改まった。
海軍工廠の職工の父親が左翼運動家として刑務所に放り込まれたため家族は極貧に近い暮らしぶりだった。
Tは旧制中学を卒業して海軍工廠の職工となり一家を支えた。
そして敗戦。
向学心に燃えるTは進学を目指す。
旧制第五高等学校(現在のK大学)を経て、一九四九年にT大学法学部に入学。
東京・神田の製本所に住み込みで働きながら、五三年にT大を卒業した。
二六歳の新卒である。
T大法学部卒の肩書があっても、年齢制限で一流企業には就職できなかった。
Tを受け入れたのは、のちに中興の祖といわれることになるS銀行の副頭取のSである。
SはKがS商屈のグループ会社にいたときの後輩で、KとともにS銀行に入った。
銀行家には珍しい、豪放語落な人で、親分肌だった。
Kが政界に転じてからは、四六歳の若さで副頭取になったSが、S銀の経営を仕切った。
その後、SはKとの権力闘争に勝ち、「K銀行」は「S銀行」に看板を掛け替えた。
Sは、一九八四年に八五歳で亡くなるまでS銀行のドンとして君臨し続けた。
T法学部は、地方の銀行では最高の勲章である。
最高実力者のSに目をかけられたTは出世の階段を一直線で駆け上がった。
頭取に就任するのは一九八九年一二月である。
学歴に強烈なプライドを持つTは、これまた、ワンマン体質だったこともあって、長期政権を続けて、ゆくゆくは、全面的に「T銀行」に変えるだろうとみられていた。
しかし、権力の頂点を極めた瞬間、足をすくわれた。
女性スキャンダルである。
ホテルでブラジル人女性と一夜をともにしたシーンがビデオで隠し撮りされていた。
スキャンダルの背景には頭取のTとF専務との確執があった。
大口融資先との癒着を追及されていた長崎地区の責任者のF専務が、長崎市のY組系暴力団と組んでTの追い落としを画策した、と噂された。
F専務は逮捕は免れたが、0Bたちの聞では、T頭取とF専務は同罪で、A級戦犯とみなされていた。
F専務が癒着していた大口融資先とは、中古船売買、傭船を主力事業とするHカンパニーである。
マリン事業のほかに長崎を中心にホテルを六施設、スポーツセンターを二施設、ゴルフ場など手広く経営。
長崎市では名の通った企業だ。
Tの隠し撮りは、H傘下のホテルで行われた。
Tの桃色スキャンダルをネタに街宣車による威嚇が始まり、福岡市のY組系暴力団員である総会屋から融資を求められるようになった。
Tは親交のあった佐世保市出身の宝石販売会社の経営者、Sに善後策を相談。
Sは裏街道を歩いてきた男、だ。
Sは面識のあった関西の暴力団・S組の組長のSに収拾を依頼した。
Kは長崎市の暴力団や福岡市の総会屋と話をつけた。
渡した金はS銀行の融資先である建設会社が用立てた。
スキャンダルをもみ消した謝礼をKに支払うにあたり、迂回融資の受け皿にしたのが、Sが経営する化粧品販売会社・Hと宝石販売会社のEだった。
E社長のS道彦は、自分の会社にも融資するという見返りを条件に、迂回融資の受け皿になることを承諾した。
バブルの時代に、盛んに地上げをしていたKは、Hに開発の見込みがない千葉・長生郡長柄町の山林や大阪の土地を売りつけて、Tが提供する資金を吸い上げていった。
買収資金はまったく価値がない山林を担保にS銀行が出した。
Eはペーパーカンパニー、W・S・Bを設立。
模造宝石を担保にS銀行から融資を受けた。
この金の一部がHに還流し、Kに流れた。
迂回融資の仲介役となったSは、Eの第三者割当増資を引き受け、いつしか、Eの中枢に入り込み、S銀行から巨額の資金を引き出すようになったのである。
暴力団は一度食らいついた金ヅルは、絶対に放さない。
Kは再三にわたり融資を求めた。
EやSにもカネを要求した。
もはや、暴力団組長からの要求を断るのは困難と考えたTは、Sの進言を受け入れてK切りに踏み切る。
Sは、Y組系N会の大物幹部にK切りを依頼した。
手切れ金五億円は、W・S・Bを迂回してS銀行から貸し付けられた。
Kは、S組の事務所で、手切れ金を持参したN会の大幹部から、「今後、S銀行との接触をやめるように」といわれた。
N会の大幹部が相手では、太万打ちできないと判断したKは、五億円を受け取ることなく、S銀行から手を引いた。
K切りに踏み切る際に、SがEの監査役として招いたのが弁護士のTである。
TはS銀行の顧問弁護士にもなった。
Tの登場は、S銀行の利権がSからY組の中枢に移ったことを意味した。
事態を重視した捜査当局は、この事件に警視庁捜査二課の捜査員の三分の二にあたる一00名を投入する大規模な態勢を敷いた。
長崎県の中堅銀行の事件に、警視庁があえて、直接、手を突っ込んできたのは、T弁護士という大物のヤメ検(元検事)を最終ターゲットにしていたからだ。
ヤメ検を現役の検事が狙う。
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